近藤達弥/1974年静岡県生まれ。
多摩美術大学絵画学科卒業。05年グッドデザイン大賞を受賞した「ドレミノテレビ」で美術デザインを手掛ける。他、雑誌、広告、音楽関連でイラストレーション、セットデザインなど、幅広く手掛けている。

ーーーまずは絵との出会いはなんだったんですか?
子供の頃、妖怪とか怪物とかが好きでそれをずっと描いていたのが始まりです。
ーーーどんな子供だったんですか?
幼稚園からお絵描き教室に通っていて、ひたすら絵と粘土で遊んでました。
ーーーなるほど
実家が和菓子屋でスタッフの女の人がチラシを切ってくれて
その裏にお絵描きをしていた感じです。
ーーーそういえばQ-CONさんの絶妙な中間色は和菓子がルーツっぽい感じがしますもんね。
そうっすかね?自分では意識した事ないですけど。笑
ーーーお絵描き教室に通ってたとの事ですが、それは自分の意志で通ってたんですか?
そうですね、自分から『行きたいっ』て親に行って通い始めました。
ーーーその後はどんな感じだったんですか?
中学校では少しグレながらも毎週油絵教室に通ってましたね。
高校は美術高校に行ってたので、もうお絵描き三昧でしたね。
週の半分は絵の授業だったし、放課後も絵を描いていたし
そう意味ではまじめに絵を描いていた感じですね。
先生に徹底的に写実をやらされて
ある意味、今の基礎になってますね。
ーーー賞とか穫った事はあるんですか?
なんとか新聞賞ってのを穫って授賞式にはるばる上野まで行った事があります。
ーーー結構有名な賞なんですか?
そうですね、上野の美術館で授賞式をやるぐらいなので。
親に新品のジャージを上下で買ってもらって授賞式に行きましたね。
みんなはビシッとジャケットを着ていたのに自分は
ジャージと言う。笑
その時が初めて東京に来た時ですね。
ーーーえ〜東京出身じゃなかったんですね?
そうそう、静岡の浜松なんすねー。
砂丘のある浜松です。
ーーーイラストレーターとしての初仕事は?
「TOKION」とゆう雑誌で撮影の小道具としてアクリル板に絵を
描いてくれって言われたのが初仕事ですかね。
ーーーそれはお金をもらった仕事なんですか?
それはお金もらってない。苦笑
ーーー初めてお金をもらった仕事は?
大学の時に地元浜松のハードコアバンドに頼まれて
浜松シティーハードコアというタイトルのジャケットデザイン
それを作ったのが最初かな。その時に一万円もらいました。
ーーーその後はどんな感じだったんですか?
大学へ進学したんですが大学在学中はほとんど学校には行ってなかったんだけど
映画監督の撮影を手伝ってて3年ぐらい映画に関わってましたね。
ビラ配りから始まって、次は美術班になって美術助手をずっとやってて
でもインディーズの映画だから途中でお金が無くなって撮影がストップして、
で再開してらメインの美術の人が来れなくなって、代わりに自分が美術になって、何セットか作って。
ーーーそういうバックグラウンドがあったんですね?
そう、立体関係はそこで学んだ感じですね。
ーーー大学は普通の大学だったんですか?
美大です。油絵科を専攻してたんだけど今はどうかわかりませんが、当時は授業が凄くゆるかったので、
絵だけ提出すれば進級出来たんですよ。だから映画の現場で監督にお願いして課題をやらせてもらって
残りの時間のほとんどを映画に情熱を費やしてましたね。
ーーー映画に関わろうと思ったきっかけは?
きっかけはその監督の映画を観に行って。一見グロくてすごい気持ち悪い映画なんだけど、
映画館の中にシステムを持ち込んで、爆音で鳴らしててセリフとかは全然聴こえないんだけど、
あまりにも爆音すぎて失神してる女のお客さんとかいたりして。映画で失神してる人なんて初めて見て、
面白そうだな〜っと思って。その時にちょうどその監督がいたので、
その場でなんでもやりますので手伝わせて下さいってお願いした感じですね。
ーーー相当くらっちゃったんですね。笑
その頃は若いから何でもイイから吸収したい年頃じゃないですか。その時にそういった事を見せられちゃうとね。
食らっちゃいますよね?笑そっからはただ働きのスタートですよ。助監督、製作、美術とか一通りやりましたね。
それこそ音響で馬の音とかお椀でやるじゃないですか、それとか、波の音とかあずきでやってましたよ。
作ってる映画はかなり激しい内容の映画だったので筋肉のしまる音とかをゴムでギューギューやって出してましたね。
あとは頭が弾ける音とか。苦笑
ーーーその映画は完成したんですか?
ハイ、完成しました。福居ショウジン監督/脚本/編集
タイトルは「ラバーズ・ラヴァー」
ーーーその映画関係の仕事はどれぐらいしていたんですか?
大学生生活の間、ずっとやっていた感じです。
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