GUEST / 菊地武男
PROFILE / 1964年生まれ。御存じ埼玉県、川越市のスニーカーショップ「ハンドレットファースト」「TAKE-O」のオーナー。無限の知識とコレクションを合わせ持つスニーカーの申し子。







―――自分で買った最初のスニーカーって何だったんですか?
「中学2年のときに買ったレザーのコルテッツですね。だから’70年代の後半。今もそうかもしれないんですけど、僕の行っていた学校では先輩と同じスニーカーを履いちゃいけないっていう風潮があって。もう当時はアシックス、ミズノが全盛の時代だったんですよね。高くてそれを買えない人はパンサーだったり(笑)」
―――でも、当時のナイキは日本での認知度ってほとんどないですよね?やっぱメジャーなアシックスやミズノを履きたいと思ったことはないんですか?
「どうなんでしょうね?でも周りと同じモノは履きたくない、っていうようなひねくれ根性みたいのがあるんで」
―――そこからどんどんスニーカーにのめり込んでいったって感じなんですか?
「いや、そういうワケではないんですけど。でも不思議だったのは、小学校の運動会とかでみんな新しいスニーカーとか履いてくるじゃないですか。僕は友達が新しい帽子とか洋服とか着てきてもほとんど感心なかったんですけど、スニーカーにだけはすごい反応してて。で、家に帰って●●ちゃんが新しいスニーカー履いてきた!僕も欲しい!って頼んだりして(笑)」
―――いやはや、その頃から……恐ろしや(笑)。またコルテッツを選ぶあたりも菊地さんらしい感じで。誰かの影響とかはまったくなく?
「それが、今はもうないんですけどその当時、上福岡ってところに『中商・スポーツ』っていうスポーツ用品店があって。そこの店員さんが当時のサーファーっぽい格好をしてて、その人にすごい影響を受けたんですよね。コルテッツはもちろん、ナイキとかも教えてくれて」
―――値段は?やっぱり高かったんですよね?
「そうですね。当時のアシックス、ミズノは五千円〜六千円くらいだったんですけど、ナイキのコルテッツは一万くらいしてましたからね。まぁ学校に履いていっても周りの反応とかはなくて、自分だけ“してやったり”みたいな(笑)。“みんなナイキを知らないの〜”みたいな(笑)」
―――じゃ、どっぷりスニーカーにハマっていったのっていつ頃になってからなんですか?
「高校生ですね。趣味でマラソンのクラブチームに入ったんで。テクテックとかブル

当時、吉祥寺にあったスニーカーショップ。(当時は、まだ在籍してなかったが)関村求道さんでお馴染みのテクテックは駅ビル内に。ブルは商店街の中にあった。共に新作のスニーカーがズラリと並ぶ、話題のお店だった

っていうスニーカー屋さんにすごい影響をうけて、よく通ってましたよ。テラのアメリカ製のヤツとか、マリアとかのランニングシューズばっか買ったりして」
―――マラソンを始めたきっかけって?
「やっぱ、アメリカのジョギングブームの影響ですね。ランナーズワールドとか海外の雑誌とか見てもインターナショナリストとか


ナイキから83年にリリースされたランニングシューズ。
当時、菊地さんを虜にしてやまなかったという

LDVっていうようなランニングシューズを履いて走ってる人がいて。それがもう、格好良くて、格好良くて。で、アメリカのジョギングブームにもリンクしてるんだけど、アメリカのカレッジものの服もちょうど出始めてきて。オレゴン大学とかそういうものにすごいヤラれちゃって」





―――それで高校出て?
「もう高校在学中からナイキに入りたいって決めてて。なんとかして入ろうって思って」
―――でもまだその時期のナイキっていうと?
「そう全然、全然。まだまだマイナーでしたよ」
―――それなのになんでまた、入りたいと思ったんですか?
「なんでか分からないんですけど……。でも1つ言えるのは、インターナショナリストにすごいやられちゃってて。で、オレゴン大学の選手用に色んなスニーカーを供給してるっていうのを知って。そのスニーカーの写真


インターナショナリストの選手用として作られたグリーン/イエロー。オレゴン大学のカレッジカラーを採用したこの1足は、菊地さんに大きな衝撃を与えた。今でも何十万出しても欲しい自身にとっての究極の1足だとか

を見たら“なんだこりゃ〜!”みたいなモノがあって」
―――具体的にどんな経緯を経て、入社に至ったんですか?
「いや、本当に何の手立ても思い浮かばなくって……。とりあえず大学行った方がいいのかとも考えたし……。そしたらたまたま通ってたスポーツ用品店のオーナーが紹介してあげるよ、ってことになって。そしたら入っちゃった、って感じですね(笑)。当時は会社設立から間もない頃で、スタッフの人数も少なくて。その中のペーペーでしたよ(笑)。でも夢があって自分がデザインしたスニーカーを世界に売れれば、って思ってましたね。でも現実は倉庫番からのスタート(笑)。まぁ当然なんですけどね。で、次は営業になって。デパートの在庫管理とかを2年くらいやってましたよ」
―――へぇー、やっぱりそんな下積み時代があって
「もちろん、もちろん。それで’84年になるとナイキの中のサブブランドってことでジョーダン、ACG、マッケンロ−、アクアギア、っていうのが出てきて。それで新事業部が設立されて僕はそこに配属されたんですね。もちろん既存の取り引き店ではダメだから、ACG

ALL CONDITIONS GEARの略で、アウトドアの環境において起こりうる過酷な状況化でも対応してくれる高スペックなアイテムが揃う。この当時のラインナップは、スーパードーム、ワイルドウッドACG、モワブ、エスケープなど

などはサンプル持って日本中駆け回った。店で“どうですか〜”って聞いても“こんなの山じゃ履けねぇよ〜”ってポンって投げられたり(笑)。
―――えっ!?そんなにヒドい状況だったんですか?
「もう全然(笑)。当時の色使いってブルー、ピンク、ベージュ、パープルって色使いが多かったから、誰にも相手されない (笑)。で、当時は国際展示場みたいな場所で開催される展示会にナイキもブースを出してて。で、そこに立ってたらレッド・ウッド

ファイヤー通りにあったインポート物を扱うセレクトショップ。間違いなく当時の最先端を行くお店だった。先出のジョーダンを初め、ダンク、コートフォースなども菊地さんからレッド・ウッドのホットラインで置かれていた。ちなみ店長の清水さんは現ネペンテスのオーナー

の店長だった清水さんが来てくれて。僕は好きで原宿とか渋谷とかをフラフラしてたから僕の顔を覚えててくれたみたいで“あぁナイキなんだ〜”って言ってくれて。そしたらエア・ジョーダン1をやりたいんだけどって話になったんですね。翌の’85年くらいになるとジョーダン1の売れ残りとかを集めてオファーしたら思ったほどオーダーがなくで、 (笑)。“えぇっ!?”って感じになっちゃって……。まぁ話を詰めてなかった僕が悪いんですけど、でもその後もフォロー、フォローって感じで入れてくれて、けっこう売ってくれましたね」
―――でもやっぱり当時のジョーダンは、まだまだ世間一般には?
「ですね。アメリカでは爆発的に売れてるんだけど、こっちではスケーターとかLL COOL Jのジャケ見た人とか、かなり限られた人しか注目してなかったですね。そんな中でもレッド・ウッドは、ACGもおもしろいねって言ってくれて置いてくれたんですよ。そんな動きをしてるうちに徐々に広がっていって、ビームスやシップスとかも声を掛けてくれるようになってきた。同じくらいにミタ(=ミタスニーカーズ)さんや山男(=山男フットギア)さんみたいな、いわゆるスポーツ用品店とは少し違うファッションニーズの強いスニーカーショップもでき始めてきたので、じゃあってことでファッションニーズにも対応できるよう、コートフォース


言わずもがな’80年代を代表する名作スニーカー。しかし当時のBLK/WHTなどはバスケット連盟によって着用が禁止されていたカラーだった為、日本での正式な発売はなかった。なので、菊地さんはアメリカから取り寄せては撒いていたという。当時のスケーターにも愛されていた

など、海外の在庫を集めて撒いてみたら一瞬でなくなった。“こりゃおもしろいな〜”って思いましたよね、やっぱ。だんだんと商売として成り立つようになってきたし」
―――おぉ〜!!それで?どうなったんですか?
「そうなってくると、既存のスポーツ用品店でもそういったスニーカーへの需要が高まってきて、販売店舗を少しづつ増やしていって、やっぱ売れたんですよね〜」
―――他に世に送り出したスニーカーっていうと?
「ジョーダン1は正直思ったほど売れなかったので、2は日本では正規にカタログ載せてって売り方はしてないんですよ。だからそっちも僕がいたセクションでやって。3もですね」
―――へぇ〜。でもやっぱ2も3も当時は?
「うん。厳しかったですね〜。他にはトレッキングシューズのシリーズのサン・オブ・ラバドームなど。


ACGのカテゴリーから89年にリリース。ラバ・ドームをゴツくしたようなフォルムの1足で、爪先、サイド、ヒールにラバーのモールドを施し耐久性がアップしている。ラバ・ドームよりサン・オブ・ラバドームの方が好きという人もけっこういる

こいつにラバドームのオレンジを付けて売りたいって思って、レポートを提出したら採用されたんですよね。入社するときの夢だった“自分で提案したスニーカーが売られる”っことが叶って。そうすると達成感じゃないけど、そろそろかな〜って感じで退社を意識しだして。で、最後にワッフルトレーナーの復刻を提案して。でも当時のナイキに復刻なんて言葉はありえなかった時でしたから。常に新しいモノ、というスタンスで。だからレポートを提出したりして、やっと企画が通って……」
―――売れました?
「うん。売れましたね〜。やっぱ復刻なんてありえなかったから。で、それが終わったらもう自分の中で火が消えちゃって。それでスニーカーショップをやろうと思って’90年に会社を退社しました。その後、お店の勉強をしようと思って2年間、千葉の稲毛にあったウォークマンってお店で勉強させてもらったんですよね。で、その後1年くらいルート作りの意味もあってアメリカとこっちを行ったりきたりしましたね」





―――そしていよいよハンドレットファーストが誕生すると
「そうですね。だから’93年〜’94年頃になるのかな」
―――じゃあ、キャンパスとかが流行った時っていうと?
「微妙にかぶってないんですよね。でもその流れが続いてて、地方のスーパーに売ってたフランスメイドのスーパースターBLK/WHTを買ってきて、4万とか5万で売ったんですけど、けっこう売れたりしちゃって」
―――あぁ、やっぱそうなんすね。で、ちょっとしたらあの空前のスニーカーブームがやってきて?

ナイキのエア・マックス95を筆頭にリーボックのポンプ・フューリーなど、当時のハイテクスニーカーが軒並み売れに売れたバブル期。人気モデルにはニセ物も出回り、エア・マックス狩りなど社会現象にまで発展した。この頃の菊地さんは、ファッション誌、スニーカー本で見ない時はないってくらいの状態で、地方から来た修学旅行生が「原宿は何もねぇから川越に行こうぜ!」なんていう台詞が出る程。また当時の菊地さんの有名っぷりを物語るエピーソードとして、家族でディズニーランドへ行くと、回りに色んな人が集まってきてしまうので、並ばないでアトラクションに乗れるように係員が裏に通してくれたという。いやはやもう超大物芸能人状態である

「ですね。だからオープンしてすぐにバブルが来たって感じで。普通、みんな1年くらいはやりくりに苦労するらしいんですが、僕の場合は違って」
―――どうでした?当時は?
「エア・マックス95が、かなり格好良かったじゃないですか?僕も注目してて雑誌とかにリコメンドで出したりしてたんですけど。でも最初は火が付かなくてウチでも他のお店でも1割引とかで売ってて。で、ちょっとたったらあの大ブレイクでしょ!?ファッション的にも世間的にもスポーツ的にも……本当に色んな要素が合わさってあのバブルがきたと思うんですけど、ホントにスゴかったですよ。出せばすぐ、いくらでも、飛ぶように、みたいな」
―――やっぱスゲーー!!買い付けは?やっぱ自分で?
「うん。ほとんど日本にいなかったですもん。95マックス探しに世界旅行しましたからね。思い出深いのはアトランタで、大出ししたときですね。ジャスト・フォー・フィートで大量に発見して!“全部くれ!”って。ディスプレイで出てたモノも良いサイズだったから買いましたもん。で、本部にも連絡してもらって“1週間アトランタに滞在するから集めてきて!”ってことで全米のジャスト・フォー・フィートから引っ張ってきてもらいましたね。で、そんなことやってたらあるところから“95マックスあるぞ!500足あるぞ!”って電話がかかってきたんですよ。相手はチャンプスだったんですけど、ヨーロッパの在庫をアメリカに移動するっていう話で、もうチャンプスの倉庫に入ったから来いって言われて。で、少し疑いながらも行ってみたら本当にあったんですよ〜。で、10.5まで全部買って(笑)。だからチャンプスに並んだのは11以上しかない、みたいな(笑)」
―――グレー/イエローしか狙ってなかったんですか?
「いや、もちろん全部。それでも出せば一瞬」
―――いくら付けても売れたんですか?ちなみに最高では?
「いくら付けても売れましたね。最高はグレー/イエローの20万でしたね。でも売れるんですよ。ちなみに最後に売ったのはホストだったのも覚えてますね(笑)。ニセ物掴まされてて“お宅は本物でしょ?”なんて言われながらも20万ちゃんと払ってくれましたからね。それが最後でしたね、マックス95は」
―――ACGはどんな動きだったんですか?
「このマックスとかのブームの少し前に来始めてって感じですね。だから’93年くらいになるのかな?やっぱレバデルチとかスゴかったですよね。正規で日本はやってないもんだから買い付けで引っ張って。ジワジワ上がってきて、ピークの時はバカバカ売れていきましたよ」
―――モックとかビートニクとかも?
「そうですね。良かったですね。」
―――で、その後は?
「まぁフット・スケープなんかも売れて。マッド・マックスもかなり売れましたね。で、次のエア・マックス96もそこそこ売れて。で、ダーンと落ちてきたというか正常に戻ってきたという感じで」
―――で、我慢の時期が続いて……次っていうともうプレストに?
「そうですね。あっ!でもトレイルランニングが来ましたね」
―――そうか!テラ・フマラだ!


正式名称は、AIR TERRA HUMARA。スニーカーブームが落ち着いた'97年に登場。トレイルランニングの旗手としてフマラなどと共に新たな旋風を巻きおこした。FL、FA、地域別注など様々な別注カラーが続々とリリースされ、人気に拍車をかけた。2002年にはHTM版もリリース

「そうそう!フマラもテラ・フマラもかなり売れて、食わしてもらいましたよ〜(笑)。でも、このブームも出てすぐにって感じじゃなくて、後からジワジワって感じですよ」
―――そうっすよね。アウトレットとかに売ってましたもんね
「そうそう。で、雑誌とか別注カラーとかで火が付き出して……」
―――その次の大きな波として、プレストがくると
「そうですね。2000年くらいですかね。正規で出回った数があんまりなくて、平行で引っ張ってきてって感じで。この波もけっこうスゴかったですね」





―――そして満を持してのティフリー


TYFURY。菊地さんが2002年に立ち上げたフットウエアブランド。第一段としてオネスティーがリリースされた。そして第二弾のボールダー、第三弾としてオーバーライドが登場。1番新しいモノとしてはボールダーの新色がリリースされています

誕生になるんですよね?
「(笑)。ですね。2002年ですね。やっぱりショップは、他の人が作ったモノをチョイスして経営していくというスタンスじゃないですか。だんだんとそれに限界を感じるようになって。別注をできる店が良い店、できない店が悪い店みたいな流れができてきて。そうなってくるとやっぱりお店もメーカーにならなきゃいけないんだなって思いまして。それでウチも1つ武器を持とう、と。で、考えたらやっぱりウチの武器は靴だなって思って」
―――NEWモデルは?
「今はなにをしようかな?って感じですね。いつまでに出さなきゃいけない、みたいな制限は作ってなくて。締め切りを作らないで、納得するモノができるまではって感じですね。だからそんなビジネスライクな感じではないですね。ゆる〜い感じで(笑)」
―――で、翌年にはウチも扱って頂いているテイクオーがオープンすると


ハンドレットファーストの隣にあるショップ。MAD FOOT!正規取り扱い店。他の取り扱いブランドは、マスターピース、ナイトロウ、バックチャンネル、エクスパンション。

「ですね。色々縁があって、すごい助けられてますよ。やっぱりスニーカーショップだけじゃ見えてこない部分とかも見えるようになったし、これからも共に頑張っていきます」
―――ありがとうございました!!














JAMAICAといえば、やっぱ、JERK CHICKENっしょ。スパイシーなハーブをきかせて、豪快にドラム缶で焼きあげたCHICKEN。一度でも、JAMAICAに行った事のある人には説明無用のくせになる味。


JERK CHICKENは1/4(QUATER SIZE)で\300〜\400ぐらい。鍋の中のは小麦粉を練って揚げたドーナツ状の付け合わせ。フェスティバル1本\50ぐらい。 数ある店の中から一軒選んでオーダーすると、店のオヤジが『ちょっと裏に来い。』と言うので、いってみると、、、


そこには、大地の恵みが、LEGALIZE〜IT ! SOME MAN DEM A CALLING GANJA〜. JAMAICA NO PROBLEM...




  HURICANE "I-VAN " MUSH-UP DE ISLAND!!!

去る9月頭、チョー大型のハリケーン、アイヴァンがカリブ海を直撃!
まる2日間強風と、大雨が降り注ぎ、
JAMAICA全土が大きな被害を受けました。


LEVEL 4 (5段階中4番目のでかさ) のハリケーンの前では、電信柱も御覧の通り。 町中が、何日もの間停電におちいりました。


電気はもちろん、水道もSTOP。 町全体、いや島中が機能停止といった感じでした。
CHO...BLOOD CLAAAT!!! HURICANE WICKEEEED!!!!!


I-VAN による長期の停電の為、最初で最後の野外DUB SHOOTING!!!
*思いでにはなったけど、今やお蔵入り、、、。 BOMBO CLAAAT!


<写真>最近、人気急上昇中のREGGAE ARTIST, JAH MASON(上) NATTY KING(下)








■ JAH CURE / LOGING FOR
今年の春、渡ジャマの際IRIE FMで1度聴いただけで相当くらったBIG TUNE!
一目惚れならぬ一聴惚れ!
これでぐっとこない女には惚れんな!マジ!!

■ SIZZLA / BE STRONG
三日間SIZZLA宅に通い録った俺らのDUBは魂入ってるよ!FI REAL!

■ LUCIANO / SATISFY YOUR SELF
ダンスではあまりかからないが我が家ではめちゃヘビーローテーション!
この曲収録のアルバムSERIOUS TIMESは今年の俺のBEST ALUBUM!

■ CAPLETON / JOY FOR ALL
CAPLETON宅に訪問の際彼が一人歌い出すと知らぬ間にみんなで大合唱!JOY FOR ALL〜!
今年色々と助けられたBIG TUNE!

■ CAPLETON / HEART HAFI CLEAN UP
DUB録り待ってる時レコーディングしていたTUNE!
DUB録る頃には口ずさんでた(笑)
REAL TING YU KNOW!



■ NO.1 T.O.K / I BELIEVE
やっぱ愛でしょ。2005年も愛がいっぱい欲しいねって。

■ NO.2 JAH CURE / JAH BLESS
今年はやっぱこの人かな。 神の御加護を!来年もいい年であるように。 BLESS UP!

■ NO.3 T.O.K / GI GI WINE
HELICOPTER, WHY YUH A STOP A! って、アゲX2です。
この曲にも何度か助けられたわ〜。

■ NO.4 MAX ROMEO / MY JAMAICAN COLLIE
やっぱJAMAICAのはうまいでっせー。ってことで、
TROJAN MIX / MP 聞いてみ!

■ NO.5 ELEPHANT MAN / SCOOBY DOO
みんなで踊ったでしょ。



■ NO.1 "KEVIN LITTLE fr.SPRAGGA BENZ / TURN ME ON(REMIX)"
今年のリリースじゃないけど、今年いろんな現場でヘビーローテーションだった1曲。 この曲で幅広い層の人たちがREGGAEを聴くようになったのでは。祝初来日!

■ NO.2 "JAH CURE / LONGING FOR"
2004年を締めくくるのはこの人かな。島中をMUSH UP! 切ないLOVE SONG...voice from jail PLEASE FREE UP JAH CURE!

■ NO.3 "カリブの小さな島の唄 / BOY-KEN"
祝1ST ALUBUM リリース!そこからREGGAEが生まれて、 毎日が良い意味でも、悪い意味でもドキドキで、 帰って来たらあーやっぱいいなーって、そんな気持ちを歌ってくれていて良いです。BIG UP BOY-KEN, FI WI ARTIST DAT!

■ NO.4 "ELEPHANT MAN / BUN BAD MIND"
これは今年の夏の気温のようにガンガン上がったチューン。

■ NO.5 "BERESS HAMMOND / MY PLAY&JOY"
まだまだ、現役でバリバリ歌える数少ないベテランアーティスト。やっぱりこの人の声は心にしみます。 PENTHOUSEとの相性の良さが際立つ心地よいTUNE。



■ NO.1 MY BOO / USHER feat. ALICIA KEYS
朝方かかるこの曲でGALと踊れたり、踊れなかったり...そんな記憶があったりなかったり。

■ NO.2 SIZZLA / GIVE ME A TRY
曲も歌詞も良い!!気持ちが前向きになれる曲

■ NO.3TS / LEAN BACK
焼酎リーーーンバック割りでーーーーーっ!!!!!

■ NO.4 N.O.R.E / OYE MI CANTO
大変恐縮でした!!
N.O.R.E.さん?

■ NO.5 CUBISMO GRAFICO FIVE / SKANK BOOPS
レゲエのBOOPS RIDIMとROCKのMIXがちょーーーかっこよい!!



■ NO.1 KANYE WEST / "JESUS WALK" (HIP HOP)
2004年は、やっぱりこの人でしょう!タイトル連呼のフックと頭のビートが 抜けた部分からの2枚使いがオススメ。

■ NO.2 USHER ft.lil jon & ludacris / "YEAH!" (R&B)
世界でヘビーローテーションされた、今だに人気のモンスターヒット曲! プロデュースをしたLIL'JONは、これ以降、引っ張りだこです。

■ NO.3 TERROR SQUAD / "LEAN BACK" (HIP HOP)
FAT JOE率いるTERROR SQUADの大ヒット曲!この曲のアンサーも豊富に出て、2004年 後半を代表する曲。

■ NO.4 THE GAME ft.50 cent / "WESTSIDE STORY" (HIP HOP)
2004年のHIP HOP業界で、最も注目された新人。 年末にリリースされるアルバムは、今年最後の爆弾になりそう。

■ NO.5 HOUSTON ft.chingy & nate dogg / "I LIKE THAT" (R&B)
この曲も今年後半を飾った大ヒットR&B! 西好みな電子音使いのトラックにハマった 人が多かった強力盤!!


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